劇場新玉座(あらたまざ)の開業
写)新玉座正面

新宮城下は浄瑠璃(じょうるり)が盛んで、芝居小屋が川原に臨時に作られ、旅役者の興行も珍しくなかった。株式組織で「新玉座」が相筋(あいすじ)の地に開業するのは、1897(明治30)年1月。新春に開業したための命名。木造で間口8間、奥行き15間、左右と正面三方に2階桟敷(さじき)。階下中央は土間、天井は張っていなくて荒削(けず)り、花道がなければ倉庫のような感じ。回り舞台はあったが、回転には手間取った。電灯のない頃はランプと百目蝋燭(ひゃくめろうそく・一つが重さ百匁もある大蝋燭)を使用。名古屋、三河方面からよく役者がやってきた。地元の芸妓と一緒になって料亭を開いた者もいる。小津安二郎(おずやすじろう)の名画「浮草」のエンドは、旅芸人が伊勢から「新宮」へ行くことを暗示して終わる。 この劇場の名を後世に残したのは、1909(明治42)年8月、与謝野鉄幹らが講演した時、中学生佐藤春夫が飛び入り演説をして、物議(ぶつぎ)を醸(かも)したことによる。

戻る