盛岡柑橘園(かんきつえん)と西村伊作(にしむらいさく)の別荘
西村伊作は自伝「我に益あり」のなかで、「私は養生するために新宮から十六キロばかり離れた佐野という海岸の村の林の中に土地を借りてそこへ家を建てた。それは私の考案した取りこわしができ、どこへでも持って行けるポータブル・ハウスである。」と述べている。時は明治44年。「大逆事件」の処刑が断行されたすぐあと。肺結核の養生のためである。伊作は留置場に入れられたとき、結核をうつされたと考えた。「時々家族が人力車に乗って来ていっしょに遊んだ。そこは人家から離れ、静かな、風景のきれいなところであった。家族が来ると子供と砂浜で遊んだり、みんながその家へ泊まって帰ることもあった。」とも言う。 「盛岡柑橘園」の写真の中に映る瀟洒(しょうしゃ)な建物が、伊作の家であったかどうかは不明であるが、当時の写真で、新宮鉄道の軌道がすでに敷設されている。この広大な柑橘園造成は、耕地整理事業の一環で、やがて一画に製紙工場ができ、西村家から個人宅に転売された建物は、その後巴川製紙の「迎賓館(げいひんかん)」として長く保存されていたというが、やがて取り壊された。

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