御幸町(ごこ(う)まち)の「大逆事件・号外」
写)熊野日報号外 新宮市史

「大逆事件」の判決が下った1911(明治44)年1月18日、死刑24名、うち6名が熊野の人たちであった。当日の夕刻、街中の辻々に号外が張られた。御幸町・船町の角に三河会社という三河の米問屋があり、そこの壁に張られた号外も黒山の人だかり。号外の意味も分からない年頃の姉弟が、目と鼻の先の自邸に帰る後姿のさびしげな様子が、いつまで も瞼の裏に焼き付いている、とは古老の言。大石誠之助の幼い遺児たちである。 当時、新宮でも「熊野新報」や「熊野実業新聞」が刊行されているが、号外として記録に残されているのは、「熊野日報」の号外である。

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