神社合祀(じんじゃごうし)
神社の統廃合政策は、明治39年8月の政府勅令に始まり、同年12月の合祀令によって、全国一町村一社に統合すべく方向づけられたが、殊に、和歌山県と三重県とで励行(れいこう)された。 明治44年6月時点、三重県では6489社のうち5547社が滅却、和歌山県では3713社のうち2923社が滅却。秋田県や青森県ではわずか4社を減じただけ。南方熊楠が、神社合祀反対の意見を展開したことは有名(「南方二書」)。 毛利柴庵が主宰した「牟婁新報」は、明治43年4月9日付巻頭で「吾徒は斯(か)くの如(ごと)き紳士(しんし)より、新宮町に於ける神社合祀の惨状(さんじょう)を聞くを悲むものなり」として「新宮町に於ける神社合祀の惨状」を掲げた。「紳士」とは、郷土史の大家小野芳彦(おのよしひこ)で、新宮での内情を告発するものであった。南方熊楠もこれに呼応(こおう)する。

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