波瀲館町(はれんかちょう)と幕末丹鶴丸のゴシップ
波瀲館町は江戸期上熊野地の一部。新宮領主水野忠央(ただなか)は、江戸本所(ほんじょ)にあった屋敷を、海の見える新宮の丹鶴城をしのんで波瀲館と命名。のちに新宮に蟄居(ちっきょ)を命じられた忠央は、池田港南西にあった茶園の御殿に「波瀲館」の名を付けた。茶園付属の講武所(こうぶしょ)も波瀲館と呼ばれるようになり、一帯の町名となって戦前まで残った。現在の池田1~3丁目付近である。 忠央は幕末、海防のため、わが国で初めてと言われる洋式の帆船「丹鶴丸」を建造、池田港で進水式を行ったが、船の動揺激しく、勝浦港に入るのがやっとだった。その頃の川柳に「池田屋の新造横になりたがり」とある。池田屋は女郎屋(じょろうや・売春宿)の意、新造は新建造船と女性の意。忠央は洋式の騎馬訓練にも熱心で、「丹鶴流」と言われる独得な騎馬調練を創案した。また、忠央は国学者として「丹鶴叢書(たんかくそうしょ)」の編纂(へんさん)を進めたことも特筆すべきである。

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