遍照院(へんじょういん)
写)遍照院門柱

ここから南側、近世から明治期にかけて、行政区域として矢倉町と呼ばれた地域。町名は、中世の矢倉氏の居館があったことからと言う。寺院として真言宗遍照院(へんじょういん)がある。ここで12歳まで成育したのが田辺の「牟婁新報(むろしんぽう)」の創刊に係わり、その後主筆、社主として活躍した毛利柴庵(もうりさいあん・1871-1938)。柴庵は新仏教の運動に係わる中から、一時「牟婁新報」は社会主義系の新聞として全国的に注目される。荒畑寒村(あらばたかんそん)や管野(かんの)スガの活躍はその頃。現在も残る石の門柱「遍照院」は、柴庵の揮毫(きごう)と言われている。

戻る