浄泉寺沿革
「新宮市誌」によれば1619(元和5)年水野重仲(しげなか)が紀州藩付家老として遠州浜松から新宮に入ったとき、召に応じて付いてきた浜松の晋法山善照寺の別院住職小幡玄祐(おばた・げんゆう)を開基(かいき)とする。水野家が浜松から来るとき、武具馬具を造る職人が必要とされ、一緒に連れてこられた人々も、同寺のご門徒で、被差別部落の人々であったと言われている。藩祖や四代目の尊儀(そんぎ・位牌)を安置し、水野家の教信も厚く、菩提寺(ぼだいじ)同様の扱いを受けたと言う。山号の遠松山(えんしょうざん)は、「遠州浜松」から二字を採ったもの。開基小幡氏は第10世で絶え、第11世が高木礼静(礼譲・れいじょう)で、顕明の前任。顕明逮捕後は、しばらく無住、1915(大正4)年以後、3人の住職が赴任するも長続きせず、1919(大正8)年山口大信(だいしん)が入山、1939(昭和14)年山口義信(ぎしん)が継ぎ、現在18世山口範之(のりゆき)が継いでいる。1996(平成8)年から高木顕明を追悼する「遠松忌(えんしょうき)」が本山の主催で毎年6月に執(と)り行われている。

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