三輪崎のふたつの海岸ー海水浴場風景
写)大正末期ののうぜの浜での海水浴場

三輪崎海岸には二つの浜辺があった。新宮の御手洗(みたらい)海岸寄りの東側は、「なかばの浜」と言われ、1972(昭和47)年ころまで海水浴場としても賑わった。「弁慶の子守松」といわれる大木の松の木もあった。浜では放牧が行われ、鯨の解体作業なども行われた。佐野湾寄りの西側の「のうぜの浜」も、遠浅で波も静か、名物「二本松」があり、大正期以来、孔島(くしま)を臨む快適な海水浴場であったが、1933(昭和8)年頃から築港に着手、やがて新宮港建設に引き継がれて、コンクリート護岸となった(1979年)。 新宮領主浅野忠吉(ただよし)が広島の三原(みはら)に移封(いほう)となった時、三輪崎の優れた漁師集団を連れて行ったことが、三原市のある寺の古文書に残されている。「なかばの浜」から出立したと言われている。その子孫が三原市の旭町に在住、いまなお三輪崎区との交流を続けている。

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