三輪崎鍛冶(かじ)のこと
町名にも残る新宮の鍛冶は、昔からの「入鹿(いるか)鍛冶」と「三輪崎鍛冶」とが合体して形成されたと言われる。9代新宮領主の水野忠央(ただなか)が、新宮萩野(はぎの)の地に製錬所を設け、鍛冶36軒を集めたが、そのほとんどが三輪崎鍛冶であった。故浜畑栄造は、三輪崎鍛冶のルーツを鈴島沖の砂鉄に注目し、当初は鏃(やじり)製造が主であったと推測している。鈴島に鍛冶一人が白馬に跨(またが)り、何処(いずこ)の国からか波に乗ってやってきたという伝説が残っている。
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