大塩平八郎の乱への関与を疑われ
湯川麑洞は、幼い時から学力に秀(ひい)で、弟周平(しゅうへい・号は樗斎・ちょさい)とともに伊勢に学んでいた時、陽明学者として高名であった大塩平八郎(1793-1837)に見いだされ、大坂の私塾洗心洞(せんしんどう)に入塾、まもなく塾頭になる。天保の飢饉に窮乏する人々に同情した大塩は、門下や近郷の農民らを集めて挙兵、たちまち鎮圧されたが、幕藩体制の危機を告げる出来事として、世に「大塩の乱」と呼ばれた。湯川兄弟は、蜂起に反対し、勃発前に離反するが、一時拘束の身となる。 嫌疑が晴れ、しばらく謹慎生活を送るものの、麑洞の向学心はやみがたく、江戸の昌平黌(しょうへいこう)の学問所で研鑽(けんさん)、漢学の大家となる。新宮領主水野忠央(ただなか)はその才を見込んで藩校の督学に採用、明治の学制頒布で小学校が開校される中、破格の待遇で校長に任ぜられ、多くの人材育成に貢献する。

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