中上健次作「奇蹟(きせき)」の書き出し
中上健次の「奇蹟」の第一章「タイチの誕生」は、次のように始まる。-「どこから見ても巨大な魚の上顎(うわあご)の部分に見えた。その湾に向かって広がったチガヤやハマボウフウの草叢(くさむら)の中を背を丸めて歩いていくと、いつも妙な悲しみに襲われる。トモノオジはその妙な悲しみが、巨大な魚の巨大な上顎に打ち当たる海の潮音に由来すると信じ、両手で耳を塞ぐのだった。(略)(トモノオジは)日が魚の上顎の先にある岩に当たり水晶のように光らせる頃から、湾面が葡萄(ぶどう)の汁をたらしたように染まる夕暮れまで、ほとんど日がな一日、震えながら幻覚の中にいた。(略)精神病院の職員に見とがめられなかったら、湾一面が真紅に変わる頃まで、そのままの姿でトモノオジはいるのだった。巨大な魚は路地の何人もの者がそうだったように、体中の血を吐き出して呻(うめ)いているのだった。」-「奇蹟」は、これまでの「オリュウノオバ」に加えて、語り手の「トモノオジ」が登場、「語り」が複層的に展開する。

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