川原の木挽(こび)き小屋
写)木挽きの図

佐藤春夫の曽祖父佐藤椿山(ちんざん)に「木挽長歌(こびきちょうか)」という諷喩詩(ふうゆし)がある。なかに、「木挽米の飯、炭焼きや茶粥(ちゃがゆ)、百姓男は麦の飯」という科白(せりふ)があって、幕末期から、木挽きがいかに高収入を得ていたかを皮肉っている。 明治から大正期にかけて、熊野川原には木挽き小屋があり、板を挽(ひ)く力仕事をしていた。しかし、旧貯木場方面に製材工場が出来始めると、自分たちの特権が奪われるとして、製材工場建設反対運動などが起こった。機械化の波は抑(おさ)えがたく、木挽き小屋は次第に姿を消していった。

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