公娼(こうしょう・=遊郭・ゆうかく)設置と反対運動
写)三本杉遊廓

1905(明治38)年12月、和歌山県議会は公娼(こうしょう)設置を認める議決をした。これまで、全国で公娼が設置されていなかったのは、和歌山県と群馬県とだけだった。遊廓(ゆうかく)と言われる、女性を一定の場所に囲い込んで売春を認める制度で、主に衛生面から必要を主張する者も多かった。そのことに、女性の人権擁護の立場から敢然(かんぜん)と抗議したのは、田辺の「牟婁新報(むろしんぽう)」で記者をしていた弱冠(じゃっかん)19歳の荒畑寒村(あらはた・かんそん)である。横須賀の芸妓置屋の環境で育った寒村にとっては、女性の人権を蹂躙(じゅうりん)したこの制度は切実な問題で、「売らるゝ乙女(おとめ)」という哀切(あいせつ)な詩を書いたりなどして、厳(きび)しく抗議している。それに呼応して反対を表明したのは新宮の大石誠之助。県内設置3ケ所のひとつが新宮であった。相筋三本杉(あいすじ・さんぼんすぎ)の地を推す「実業派」と、堀地(ほりじ)の地を推す「改革派」の対立はあったものの、制度そのものに反対したのはごく限られていた。結局、翌年2月、相筋三本杉の地に新宮遊廓が誕生する。僧侶高木顕明などは、遊廓の入口で、ひとりひとりを説得しようなどと主張したほど、反対派は少数で、孤立した闘いを強いられた。公娼については、社会主義者と言われた人々の多くも賛成で、むしろキリスト者が反対した。

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