「上・中・下熊野地」
写)明治44年地図

1911(明治44)年刊行の「新宮町市街全図」からも分かるように、明治30年頃に現在の徐福の墓から南方、下熊野地まで一軒の民家もなく、田と畑があるばかりで、その中を市田川が流れ、貯木場に注いでいた。やはり賑(にぎ)わったのは池田港周辺。新宮鉄道が開業後しばらくして、民家が建ち始め、製紙工場や製材工場が増加していった。江戸期から明治初期には「上熊野地」「下熊野地」の地名だけで、やがて「中熊野地」ができた。各町名ができるのはさらに後。新宮と熊野地とは別の行政区画の様な印象で、それぞれ「新宮へ行く」とか「熊野地へ行く」とか称していた。

戻る