東基吉(ひがしもときち)の幼稚園教育
明治30年代、わが国黎明期(れいめいき)の幼児教育において、わが国最初の体系的保育論の書『幼稚園保育法』を著したのが東基吉。 新宮の須川家に生まれたが、両親と死別、東家の養子となる。苦学して、新宮キリスト教会などで英語を学ぶ。しばらく小学校代用教員をした後、和歌山師範、東京高等師範に進んだ。卒業後まもなく明治 33年、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大)助教授兼附属幼稚園批評係になった。日本の幼児教育のメッカともいうべき場で、リーダーとなった基吉は、これまでの欧米直輸入的な保育手法を、自由主義的、児童中心的な方向に変えていく努力を行い、その8年間に及ぶ努力は先駆的(せんくてき)なものと言える。妻・くめに口語体童謡の創作を薦(すす)めたのも、そうした教育の推進の立場から。 基吉は明治41年から宮崎、栃木、三重の各師範学校長を歴任、最後に大正6~14年、大阪の池田師範学校長を勤め、池田に住居を定めた。

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