名古屋のミッションスクール・名古屋英和学校の宗教・語学の教師
余平が東海地方に転居して、熱田神宮の大鳥居前の家に住んだ。入口に「キリスト教講議所」の看板を掲げていた。その後名古屋に移り、明治24年9月1日付で、名古屋のミッションスクール・名古屋英和学校の宗教・語学の教師になっている。記念写真などでは、「大石牧師」と表記されている。 余平が勤め始めて2ケ月後の10月28日早朝、岐阜県山間部を震源地とするM8・4の大地震が発生する。名古屋市内各教会連合の早天祈祷会が、名古屋英和学校で開かれていた。余平は妻冬、伊作を伴なって参加していた。夫妻と伊作は宣教師宅の臨時医療所に運ばれたが、夫妻は夜を待たずに天に召された。チャペルの煉瓦の倒壊が原因であったと、後に沖野岩三郎は「煉瓦の雨」と表現した。この時英和学校では、神学生ら2名も犠牲になり、近くの紡績工場では、35名の女工が圧死した。 キリスト教徒の昼夜を分かたぬ救援活動は、名古屋市民に好意的に受け入れられ、久しく内紛(ないふん)が続いていた名古屋・愛知両教会の合併に大きく前進した。「大石牧師」の尊い犠牲が、その糧(かて)の一部となった。余平の文章はいまのところ、一片すら見つかってはいない。

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