大石医院(宅)跡
写)診察室の大石

「大逆事件」で犠牲となる大石誠之助が、インド留学で伝染病の研究をして帰国したのが1901(明治34)年1月、4月から医院を再開し、まもなく仲之町から船町に移った。やがて情歌作者として宗匠(そうしょう)の地位に上り詰めるが、インドのカースト制度を目の当たりにしたことなどもあって、次第に社会主義思想を信奉するようになり、それらの人々との交流、社会主義系の雑誌への投稿などが増えてゆく。 医師としての誠之助は、人々から「ドクトルさん」と親しまれ、人々は小さな看板をみて「毒を取ってくれる」などと解釈もしたようだが、殊(こと)に貧しい人々からは診察代を請求しない無請求主義を貫いた。受付で、トントントンと合図するのが習わしになっていたと言う。また、薬漬(づ)けの診療にも批判的で、一病一剤での対応を主張している。さらに、医療国営論を展開して、医師と社会の関係を論じている。


戻る