応接間の再現
現在、南側にマントルピース、東側と北側に一つずつ壁龕(へきがん。壁に作ったくぼみ)のあるこの部屋は、始めは完全な洋室だったが、その後いくらか変化、そのうちマントルピースの前に木枠で囲んだ3畳の間を作り、机を置いてここで春夫は奥側に座って来客と接するようになった。南側奥に、芥川龍之介の友人である画家、小穴隆一(おあなりゅういち)の絵を架(か)けているが、これは建てて間もないころの室内風景。ここにあるものは、畳の間の机を除き、螺鈿(らでん)を施した洋机やロッキングチェアなど3脚の椅子、東南隅の飾り棚などいずれももとのまま。それに帆船(はんせん)の模型、龕に収められている陶器類、中国の聯(れん。左右一対の細長い書画の板)、机上の文具などの小物類などもまた春夫邸からもたらされたもの。「春夫ブロンズ像」は、友人の彫刻家、高田博厚(たかだひろあつ)の製作。俗に「門弟三千人」と称された春夫、いつも色んな人が出入りし賑(にぎ)わっていた。偶然ここに来合わせ、春夫に紹介されて初めて知り合いになった文人や研究者なども結構多かったとも言われている。春夫が72歳で急逝したのもここで、昭和39年 5月 6日、朝日放送の「一週間自叙伝」録音中、「さいわいに……」の言葉を最後に心筋梗塞で倒れ、不帰の人になった。その録音もここの畳の間で行われていた。

戻る