「雑賀町(さいかまち)」のこと
城下町では生魚類を一定の地に限定する例が多かった。新宮城下でも慶長期の浅野氏の時、雑賀町(さいかまち)を魚座(うおざ)と定め、他の地での魚類売買を禁止した。和歌山の雑賀の漁夫に魚類取扱いを許可したことから、この町名が生まれた。もとは、細工町(さいくまち)と称し、細工師の居住地であったという。三輪崎からの魚類の持ち売りは、町内どこでも認められていたから、しばしば諍(いさか)いが起きたと言う。「いただき」(盥(たらい)用のもの)にのせての三輪崎持ち売り女の歴史が古いことが分かる。 雑賀町は、下船町から南に仲之町の中央部へと、横町から東側へと交差する一画、その間に東西に本町通りが通っている、L字形(えるじがた)の町。魚屋の外、飲料店、八百屋、雑貨屋、荒物屋、乾物店など次第に現れ、日常生活に欠かせない場所になっていった。

戻る