佐野王子跡と佐野松原
国道42号を少し南下した右側の段上に、宝篋印塔(ほうきょういんとう)、五輪塔、石仏などが集められている処が、佐野王子跡である。明治末の神社合祀によって廃社、往時を偲(しの)ぶものは残っていない。宝篋印塔は、土地の人々は、尼将軍(あましょうぐん)といわれた北条政子の供養碑と伝え、石質も熊野産ではない。 古来「狭野(さの)」と表記された地は、「佐野の岡」や「佐野の入江」「佐野の松原」「秋津野浦」など、風光明媚(めいび)な地として称(たた)えられ、柑橘(かんきつ)や桃、櫨(はぜ)の栽培など、季節の趣(おもむき)の深い場所だった。 佐野の松原は、万葉の時代以来、中世に一時伐採され、三重県の七里御浜(しちりみはま)の有馬(ありま)の松原が、初代紀州徳川藩主が入国した時、初代新宮城主水野重仲が遠州浜松から苗木を取り寄せ植えさせたと言うから、おそらくそれと同時期に佐野の松原も復活された。しかし、戦後、松喰い虫の被害などもあって、松原も縮少、熊野環境会議などの反対運動にもかかわらず、佐野湾埋め立て工事が完工されて、今日に及んでいる。


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