「さんでージャーナル」刊行の山上為男(さんじょうためお)の墓
山上為男(1905-1987)は、田辺町江川(現田辺市)の生まれ。本宮小から田辺実業学校卒業。中央大学に入学したが、父の病気で中退し帰郷。森岡嘉彦や宮本光夫らを知り紀南の労働運動に参加。演説の巧(たく)みさで多くの人々を引きつけ、田辺貝釦(かいボタン)争議や、日置木材争議、勝浦鉄心会争議などに係わり、検挙、入獄を体験。その後日本無産党に入党。敗戦後は共産党紀南地区委員長として活躍するが、のち離党。 昭和41年4月毎日曜刊の「さんでージャーナル」が新宮で創刊され、主幹、のち社主に。浜畑栄造の「大石誠之助小伝」や、無名時代の中上健次の詩やエッセイを掲載したことは特筆に値する。各種社会運動家辞典には、さらに詳細な履歴が登載されている。
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