薩摩守(さつまのかみ)として、武人、歌人として貴族社会に その名を馳(は)せ
薩摩守忠度は、源氏の勢力が次第に京都に迫り、平氏は「都落ち」せざるを得なくなったとき、一度都に取って返し、歌人藤原俊成(ふじわらのとしなり)に自身の和歌を託す。富士川の合戦や、木曽義仲(きそよしなか)討伐に手柄(てがら)を立てた忠度であったが、1184(寿永3)年一の谷の合戦で最期(さいご)を遂(と)げる。歌道、武芸ともに達者(たっしゃ)な方であったと、敵も味方も涙を流したと「平家物語」は伝えている。 藤原俊成は、後に「千載集(せんざいしゅう)」を撰した時、忠度の「さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山さぐらかな」を「読み人知らず」として入れた。源氏の世となり、平氏の歌を入れるのが憚(はばか)られたから。忠度の和歌に寄せる執念(しゅうねん)は、能楽(のうがく)の大成者世阿弥(ぜあみ)の傑作「忠度(ただのり)」を生み出している。

戻る