大正期の新開地(しんかいち)
新宮駅から徐福墓界隈にかけては、大正期のいわゆる「新開地」。春夫は、やや違和を込めて次のように書いている。 「変つたと言へばただその界隈だけではない。現に私が今このペンを動かしてゐるこの家だつて、やつぱりこの町の新開地だ。それも、私の家などが最も罪が深い。―ここの新開地は、徐福町と名づけられたとほり、徐福の墓と言ひ伝へるあたりである。いや現にその古塚は私のこの窓から日夜見える。人は私の新らしい家の在所を尋ねるから、徐福の前と答へて、戯れに墓畔亭と呼んだ。」 「あの一基の古塚の両側に今は枯れ朽ちてゐる老いた楠の樹は二本とも、まだ少しではあつたが青い葉をつけてゐたし、墓のぐるりの畔はもつと広かつた。(略)さうしてその塚のぐるりは一面の田であつた。その中にしよんぼり、枯れかかつた二本の大樹の楠の下に一基の碑と、それをやや離れて取めぐつた七塚とは、青田にそよぐ風に蛙が鳴き初める頃の夕暮、或は又、褪めやすい秋の夕焼の下で収穫に余念のない百姓などをその間に点出した時などに、詩趣とは何であるかを人の子に教へるに足るだけの価はあつた。私は時々、父にひつぱられてこのあたりへ散歩に来た覚えもある。その田圃が今は一帯の人家である。さうして人々を非難しようにも、私自身の家がここにあるのだ。」 (春夫「恋し鳥の記」・『女性』大正14年7月より)


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