情歌作者として宗匠(そうしょう)
写)情歌集と大石の情歌(佐藤春夫記念館冊子より)

江戸文化の名残(なごり)をとどめていた新宮はじめ熊野の地は、狂歌や狂句、謡(うたい)なども盛んで、都々逸(どどいつ)も隆盛を極めた。七七七五調で男女間の情を歌い込んで三味線の伴奏で唄(うた)われた。都々逸は明治期鶯亭金升(おうてい・きんしょう)によって「情歌(じょうか)」と名付けられたが、金升の弟子が大石誠之助ほか、熊野の作家連中(紀伊の金升の弟子連中の意で「紀伊升連」と言われた)である。大石が「禄亭永升(ろくていえいしょう)」の号を受け、情歌の宗匠の地位に上るのは1903(明治36)年のこと。しかし、まもなく大石は情歌の世界からは離れ、社会主義の啓発に力を注いでゆく。

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