初代藩主と転職、水野忠幹(ただもと)
写)水野忠幹

父忠央(ただなか)の意を継いで、産業の育成や、学問の奨励(しょうれい)を継続。フランス式軍隊の調練も怠(おこた)らず、長州戦争では、徳川軍が敗退を繰り返すなかで、忠幹率(ひき)いる水野軍だけが大いに軍功を発揮した。 明治元年新宮藩が独立したことにより、初代新宮藩主になったとも言えるが、版籍奉還(はんせきほうかん)を上奏(じょうそう)し、新宮県になるに及んで、最初の潘知事になった。しかし数ケ月後に和歌山県に編入される。新政府に対して「大台ケ原」開拓などの建白をしている。その後、東京深川で熊野材専門の材木問屋を開業したが、うまくいかずに失敗。「殿様の商法」の象徴のように言われた。

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