八甲田山(はっこうださん)の悲劇―水野忠宜(みずのただのぶ)
写)水野忠宜

第10代新宮城主水野忠幹(ただもと)の長男。明治33年陸軍士官学校を卒業、青森の弘前師団に入り中尉となる。日露戦争が迫る中、明治35年1月24日同連隊が雪中行軍の訓練を強行、対ロシア戦を想定した訓練。八甲田山で遭難、200余名の遭難者の捜索は難渋(なんじゅう)を極(きわ)め、水野中尉の遺体が発見されたのは1月31日夜。棒のようにまっすぐに凍死していたと言う。享年26歳。新田次郎の「八甲田山死の彷徨(ほうこう)」が著名。葬儀は2月23日菩提寺(ぼだいじ)の新宮本広寺(ほんこうじ)で営まれ、水野家墓地に埋葬(まいそう)された。

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