「徐福墓畔亭」
この家から新宮高等女学校に通った、佐藤智恵子(智恵子は春夫の姪)は、次のように回想している。 「・・・・大正十五年だと思う、春夫は父豊太郎の病気見舞のため帰って来たのだった。(略)その時新宮にはもう春夫の「わんぱく時代」の家はなく、知人の斡旋で新宮川奥から(というだけで委しいことは知らない)取りこわし住宅を買取り急遽徐福の墓近くにあった土地に移築して住居として間に合わせたのである。家は田舎の家らしくしっかりしたものであったが、庭は庭と云えるようなものではなく、植木を数本植え、下草をあしらい竹垣をめぐらしているだけのおそまつなものであった。/春夫はしかし、すでにその前年新婚の多美夫人と共に数ケ月ここに滞在している。/若草の妻とこもるや徐福町/の句がある。(略)この徐福墓畔に滞在中、中学時代の同級の友人奥栄一氏、及び夫人奥むめお氏も見えたような記憶があるし、岐阜や他のどこだったか文学愛好の青年が二、三訪れてきたことがある。」(「徐福墓畔の家」・「佐藤春夫記念館だより」2号)

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