貯木場(ちょぼくじょう)と製材所
写)教科書などにも採用された水上貯木場

明治・大正・昭和期、河口付近は一大水上貯木場を形成していた。新宮の15名の木材業者が開堀を計画、工事に踏み切ったのは1889(明治22)年1月、その年8月当地は未曾有(みぞう)の大水害に見舞われ一頓挫(とんざ)、91年3月約1万坪の貯木場が完成。その後、拡張され、南方の接続地に7千坪の新貯木場を完成(1911年4月)。約4万円の総工費をかけて「日本一」の大貯木場が出来た。この貯木場の写真が、教科書などにも採用され、木材集散地としての新宮が広く知られるようになった。繋(つな)ぎ止められて揺れる丸太の上は、子どもたちの格好の遊び場となった。 新宮に製材工場ができるのは、明治20年代末、41年頃には9工場を数え、昭和初期には19工場、57年には33工場までに。角材や板材に加工されて、池田港から、やがては鉄道により全国に搬送された。時移り、筏の流送が途絶えると、水上貯木場はその役割を終え、埋め立てられた(1967年・昭和42年)。一部は陸上の貯木場となり、外材を扱うことも多くなり、工場用地や宅地に変貌していった。

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