馬町(うままち)のこと
近世以来、龍鼓橋付近に伝馬庄屋役所が置かれ、人馬の調達管理をしていたところから、馬町の呼称が生まれたと言われる。村継ぎで公文書が送達されたが、町民などが毎日交代で詰め、馬の準備を怠らなかった。また、いつも48騎の馬があり、三輪崎から毎日米を背につけて運んだと、古老の証言がある。馬方の賃はすべて米で払われていた。登坂(とさか)には馬場があった。馬町は、近世以来、旅籠屋(はたごや・宿屋)も多かった。なかでも、「油屋(あぶらや)旅館」が明治期以降新宮を代表する旅館で、昭和18年まで続いた。

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