山田常典(やまだじょうてん)の墓
山田常典(1807-1863)は伊予宇和島の生まれ。江戸に出て国学(こくがく)の大家に。国学者でもあった9代新宮領主水野忠央(ただなか)に見いだされ家臣として仕え、「丹鶴叢書(たんかくそうしょ)」編纂を任せられる。「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」「大日本史」とともに、江戸期三大編纂物のひとつと称(たた)えられる。忠央が失脚し、新宮への蟄居(ちっきょ)を命じられたのに伴い新宮へ。辞世の歌「しるしとて石にえりおく言の葉もいつまで苔(こけ)に埋もれやはする」を残している。子息山田正(ただし)は、教員を務めながら、国会開設の建白書なども起草、菊園(きくえん)の号で、「熊野新報」紙に健筆を振っている。

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