熊野病院の医師で俳人・湯田猿叫(ゆだ・えんきょう)
1899(明治32)年7月若い医師湯田円久が熊野病院に赴任してくる。福島県南会津郡の人。東京で医学修業の頃、秋田出身で同じ医師志望の石井露月(いしい・ろげつ)と知り合った。露月は正岡子規の直弟子。円久も猿叫と名乗って新派俳句を始めていた。新宮で牧師間宮小五郎(まみや・こごろう=号は弦月・げんげつ)と図って俳句結社「金曜会」を作って、新派俳句の芽を新宮に植えた。やがて旧派の人々、春夫の父豊太郎(鏡水・きょうすい・などと号した)らも参加。子規が始めた闇汁会(やみじるかい・互いに食べ物を隠して持ち寄り、鍋で煮て、何が出てくるかで作句する。子規に「闇汁図解」というエッセイがある)を、いちはやく新宮でも行っている。しかし猿叫はわずか1年後に肺を病んで田辺で逝去、弦月また、讃岐に去り、新派の俳句はやがて京都からきて「種ふくべ」を刊行する大釜菰堂(おおかま・こどう)などに担(にな)われてゆく。詳細は、清水徳太郎の「新宮町新派俳句事始」(「熊野誌」特集号・昭和55年)参照。

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