湯川麑洞(ゆかわげいどう)の墓
湯川麑洞(げいどう・1815-1874)は幕末から明治維新のころを生きた漢学者、教育者。幼名は民太郎(たみたろう)。父は新宮藩医。生まれた浦神村(うらがみむら・現那智勝浦町)の「かごのほら」と呼ばれた所にちなみ、漢字の「鹿兒」を当て「洞」をつづけて「麑洞」と号した。大塩平八郎の乱への関与を疑われ不遇をかこった時期もあるが、後に漢学の大家になる。墓標は、高弟真砂長七郎(まなごちょうしちろう)によって書かれている。


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