徐福の墓標
紀州初代藩祖徳川頼宣(よりのぶ)は、3回に渡り熊野を巡視、速玉神社に徐福来熊の図を献納したりして、徐福への関心は高かった。現在の地に、李梅渓(りばいけい)の筆で「徐福之墓」の墓標が立てられたのは、元文元年(1736)で、頼宣の熊野巡視から百余年後、5代新宮領主水野忠昭のとき。頼宣は李梅渓に書かせて刻んでいたものか、書が残されていて、間際に青石に刻んだものかは定かではないが、長年の風雪に耐えて今日に及んでいる。二段の台石の上に立つ高さ1.4メートル、幅50センチの緑色片岩。海岸の「お留石」と言われ、藩は庶民に採石を禁止していたが、特に許可が出たものであろう。


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