熊野病院について
写)熊野病院跡。正面石段には人力車用斜面もみえる。左側が住居

佐藤豊太郎(文久2年生まれ)は和歌山医学校を卒業後、東京に遊学して順天堂に学んだ後、明治18年帰郷。政代(竹田家は和歌山藩のお庭奉行の家)との結婚について、親(養父母)との意見が合わず、実家の懸泉堂(けんせんどう・現那智勝浦町下里)からは離れて、翌19年町制が布かれたばかりの新宮町で開業。明治24年11月新宮町船町119の土地を坪井氏から購入、佐藤医院を開業して、ここで春夫は生まれた。明治27年9月登坂(とさか)に熊野病院を新築し移転。まもなく住居も建設し、家族も住まい。春夫「成育の家」である。熊野病院は大正10年前後人手に渡ったようだが、病院の閉鎖は今の所明らかではない。戦後、この病院跡は、近畿大学短期大学部新宮分校になっていたが、1984(昭和59)年取り壊され、1999(平成11)年には道路拡張で跡形もなくなった。


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