丙寅(へいいん)戦死者の碑
1866(慶応2)年は「丙寅」(へいいん・ひのえのとら)の干支(えと)、第2次長州戦争で紀州藩主徳川茂承(しげもち)は幕府軍先方総督を命じられ、従軍総督を新宮の水野忠幹(ただもと)が務めた。長州軍の抵抗に幕府軍は大敗するなか、西洋式訓練を積んでいた水野軍は芸州大野村(現 広島県大野町)で奮戦、三度長州軍を敗走させたと言う。しかし激烈(げきれつ)な戦いで、12名の戦死者を出した。翌年彼らの武勇を記したこの碑を、湯川麑洞(げいどう・浴の名)の撰文、わが国新聞の祖柳河春三(やながわしゅんさん)の題字で江戸で作り、新宮に移送された。明治の世となり、長州藩が政治の中枢を占めている新政府に遠慮して、そのまま打ち捨てられた。1878(明治11)年13回忌にあたり、遺族で新宮潘士であった印東玄得(いんとうげんとく)の努力でこの地に建立された。


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