大石余平(おおいしよへい)の活躍
大石誠之助の兄大石余平(1854-1891)とキリスト教との出合いは、余平の生涯を決定づけた。橋渡しをしたのは、妹の睦世(むつよ)。1882(明治15)年睦世は浪花教会牧師沢山保羅(さわやまぽうら)から受洗、翌年兄に漢訳馬可伝(かんやくまかでん)を贈った。まもなく、余平も受洗。新宮教会の献堂にも尽力した。妻冬の実家西村家は大山林家。長男伊作(いさく)が西村家を相続したが、余平のキリスト教への帰依(きえ)が西村家との確執(かくしつ)を生む。余平は「光塩社(こうえんしゃ)」という会社を作って材木売り捌(さば)きを業としながら、宣教師ヘールに付き従って紀伊半島でのキリスト教伝道に汗水(あせみず)を垂(た)らす。余平は明治22年の大洪水の際には獅子奮迅(ししふんじん)の働きをする。被災直後、新宮の地を離れて、岐阜県伏見町での亜炭(あたん)発掘に関与。その後、名古屋のミッションスクール・名古屋英和学校の宗教・語学の教師になっているが、その2ケ月後濃尾大震災によって、妻冬とともに圧死している。


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