大正期の徐福墓境内の整備
人家が増え、新開地になるにつけて、徐福の墓の境内は一時わずかに30坪ほどになったというが、大正5年に熊野地青年会の幹部が境内を修築、七塚の碑も建立され、境内の周囲が整備された。翌6年保田宗次郎が隣接地を寄付、大正14年熊野地青年会の幹部を中心に徐福保存会が設立され、400余円を募金、隣接地百坪余を買収、境内を拡張していった。翌15年徐福保存会とは別に徐福信徒の人達が徐福講を組織、9月1日を八朔(はっさく)の日(旧暦の8月1日。お盆の盂蘭盆の最後の日にあたる)と定め供養の祭りを始める。現在も使われている徐福の御詠歌はこの時作られたもの。


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