幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)らの熊野川での船遊び
写)秋水から小野照子宛葉書。熊野川河口風景の絵葉書

赤旗事件(あかはたじけん)の公判を期して上京を決意した社会主義の領袖(りょうしゅう)幸徳秋水(こうとくしゅうすい)が、故郷の高知県土佐中村(現四万十市)を発つのは1908(明治41)年7月21日、上京の途次、病状の診察や雑誌発刊の支援を要請するため、新宮に大石誠之助を訪ねる。診察した大石はしばらくの静養が必要と判断。大石宅に滞在するのは、7月25日から8月8日まで。熊野川川原から船を出して遊ぶのが、7月末か8月初め、それが、夜、亀島などで「天皇暗殺を謀議(ぼうぎ)」したとされ、「大逆事件」に捏造(ねつぞう)されてゆく。50年後、再審請求が成されるが、その際、船頭を務めた天野日出吉(あまの・ひできち)の証言が新証拠として提出される。昼間から夕刻にかけての「海老掻(えびか)き」(川エビ獲り)遊びであったこと、乗船者もほとんど確定でき、女、子どもを伴なっていたことなども確認されている。


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