中央の政治を動かした水野忠央(ただなか)の失脚(しっきゃく)
写)水野忠央肖像画。紀州藩士山名行雅の作。桧板に描かれている

歴代の新宮城主のなかで、中央の政治に深く係わったのは9代領主水野忠央(ただなか)。和歌山藩での実権を握った忠央は、大老(たいろう)になる井伊直弼(いいなおすけ)と組んで、妹たちを「大奥(おおおく)」へ送り込み、14代将軍家茂(いえもち)を紀州藩から実現させる。「土蜘蛛(つちぐも)」と綽名(あだな)されて、毀誉褒貶(きよほうへん)相半ばするが、産業や学問の奨励(しょうれい)、軍事の刷新など開明的(かいめいてき)な政策も実施して、貢献している。木材や炭の経済力に負うところも大きい。しかし、井伊が「桜田門外の変」で殺害され、忠央も新宮への蟄居(ちっきょ)を命じられて失脚。1865(慶応元)年死去、52歳。新宮の地で亡くなったので、遺骸(いがい)は橋本の墓地に葬られた。晩年不遇であった忠央ではあるが、新宮蟄居に伴い、優秀な藩士が付き従って新宮入りしたことは、新宮の地に江戸風文化を根付かせるのに大きな効果を生んだ。その一つが「雑俳(ざっぱい)」流行の風土であり、食文化への影響である。


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