『太平洋食堂』
紀州徳川家の付家老(江戸詰め)であった水野氏3万5千石の居城。 9代城主忠央(ただなか)は、14代将軍擁立など大老井伊直弼の側近として活躍。 その開明的な施策や「丹鶴叢書」の刊行は後世評価が高い。しかし桜田門外の変で井伊直弼が失脚すると、新宮に蟄居(ちっきょ)を命じられた。 最近発掘された、「炭納屋群」の発掘は、お城の経済的役割の重要性に注目を集め、これまでの城の役割を大きく変えるものと言われた。 新宮市橋本に「水野家の墓所」がある。 明治期、城は個人に払い下げられ、珍しく個人所有のお城跡として存在、紀勢本線トンネルも貫通している。現在は、新宮市に寄贈されている。 城山周辺は、佐藤春夫が少年時代を描いた「わんぱく時代」の舞台でもある。